ヒーラーでミディアム・霊能者の佐藤マサコの
『海の女神の物語』

弟橘記念碑 海上自衛隊Y氏の証言 走水神社宮司の証言東郷神社氷室氏の証言 佐藤マサコの東郷平八郎 頁末


                

          
              走水神社


鳥居を潜り、石段を何十段か登った折に本殿があります。
木々に囲まれた走水神社の本殿は、
防衛大学校がある小原台という三浦半島独特の
小高い丘の中腹にあります。

更に石段もない本殿の裏山に登ると、
今回の不思議の一つ、弟橘媛命の記念碑が建っています。



弟橘媛命記念碑

         
                       弟橘媛命記念碑

明治43年6月5日建設 
 
記念碑・顕彰碑・感謝の碑

竹田宮昌子内親王による弟橘媛が走水の海に入水されるときに
詠んだ詩が表に彫ってあります。


      「さねさし  さがむのおぬに  もゆるひの
       
                  ほなかにたちて  といしきみはも」

発起人

海軍大将正3位勲1等功1級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従2位勲1等功1級 伯爵 伊藤祐享
海軍大将従2位勲1等功2級  子爵 井上良馨
陸軍大将従2位勲1等功1級 伯爵 乃木希典
海軍中将従3位勲1等功1級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従4位勲2等功2級     藤井茂太      
枢密院顧問官兼御歌所長従2位勲1等 男爵 高崎正風

高さ五メートル以上もある勾玉型の立派な石碑が走水神社の裏山の、
こんな寂しい所にといった場所になぜか建っています。


『相模のおぬという所で、燃える火の、炎の中に立って、
あなたは大丈夫かと、心配してくれた尊様よ』

といったような意味のようで、海神の怒りをしすめるために、
走水の海に身を沈めるときに読んだ歌を碑に彫ってあります。


この碑のある丘を更に登りますと昭和最大の霊能者として
再評価されている出口王仁三郎が天啓を受けた場所があります。
そこは私があまり近寄りたくない所です。霊界につながっているようです。

         
           出口王仁三郎が啓示を受けたところ
    

海上自衛隊Y氏の話

Y氏  明治時代に御所ヶ崎に砲台を造ったときに、
現地の司令官が功を焦って、弟橘嬢命の櫛を探しました。
その為に弟橘嬢の御陵(みはか)を破壊してしまいました。


マサコ  古事記・日本書記の当時、
樹は霊的なパワーツールたったのです。
現在の櫛とはその意味合いが違います。
村人が拾い納めた櫛は弟橘媛命の魂だったのです。

リーディングしますと、その櫛は金色に輝き、
櫛というよりはティアラの様に見えます。
その櫛は深く掘り下げられたところに納められたので
見つからなかったのです。文献によると、
その時掘り出された古代の遺物は村の子供達に分け与えられて、
今では一つも残っていないということです。


Y氏  そして、東郷平八郎が軍艦で走水沖を通ると、
船首に白衣をまとった美しい女性が立ったといいます。
それは海がしけている時は勿論のこと、
凪いでいるときも必ず立ったといいます。
それで東郷平ハ郎は霊感の強い神社の巫女のような人に
相談したといいます。


マサコ  何か霊的な障りがあったのかも知れませんね。

Y氏  それで、弟橘媛命の碑が建ったのだと言われております。
また、江田島の海上自衛隊の幹部候補生が
防衛大学に研修に来るときは必ずこの碑に祈りに来る
慣わしになっているということです。
以上が先輩の自衛官から聞いた話です。


編集 横須賀の海上自衛隊の広報部に、この件に付いて」
確認を人れてみました。

佐藤准尉 音橘媛の碑に付いてはお答えしようがありません。

          
               朝の走水港



走水神社 山地 巌氏の話

山地  弟橘媛命様の碑が建てられるようになった経緯は、
皇居内で神事を司る女官の小池道子が葉山で病気療養中に、
枢密院顧問官で宮内省、御歌所長でもある
男爵の高崎正風が訪れました。

二人の間で話が三浦半島の伝承に及びまして、
それでは走水神社へ行きましょうということで、訪れたところ、
本殿の横の小さな社にいらっしゃる弟橘媛命様から伝わるものが、
余りにうら寂しく、嘆き悲しむ様子でした。

これは何とかしなければいけない、ということで、
横須賀海軍基地の上村彦之丞中将に相談いたしました。
中将は地元にいて非常に申し訳ないことをしていたということで、
相談して発起人の一人となり、
このようなりっばな碑が建てられた訳です。


マサコ  横須賀市が発行する文書の中で走水神社は
弟橘媛の櫛が御神宝と書いてありましたが、
日本武尊の従者の木像、勾玉は見せていただけますでしょうか。


山地  弟橘媛命様の櫛はありません。
勾玉と日本武尊の木像は宮様と文部大臣が宮内庁や神社本庁を
通していただいたときにお見せしましたが、
従者の木像は誰にもお見せしたことはありません。
ましてや、石棺に納めた日本武尊の冠は私も見たことがありませんし、
今まで石棺は一度も開けられたことはないのです。


             
                故 山地 巌 宮司 と 佐藤 マサコ

編集 海上自衛隊に伝わる話が事実てしたら、
東郷平八郎が高崎正風に相談を依頼した可能性があるわけですね。
それと櫛を納めたとはいえ、陸軍が天皇家につながる墓を破壊の上、
あばいたとなると、これは当時、大問題になったかも知れませんね。
それで発起人の中に、陸軍大将乃木希典の名もあるのですね。
広辞苑で調べると「感謝」という言葉の中には
謝罪すると言う意味があります。
大正時代の文献には、この碑が「記念碑」「顕彰碑」「感謝の碑」と
幾つもの言葉を並べたのかも知れませんね。


 
東郷神社 氷室氏の話

走水神社の碑が建てられたのが明治四十三年ですか、
その頃、東郷平ハ郎は学習院で皇室関係者の
教育係となっていました。


東郷平八郎はそれまで冷遇されていたのに、日露戦争に勝つことで、
全てが神格化されました。
彼を神格化する為にいろいろな事実と違った情報が流されました。
海軍なら東郷、陸軍なら乃木だったわけです。


私共は日露戦争に勝ったから東郷平八郎が神になったのではなく、
神とは人間の力を超えたものと考えております。
彼は質素な生活、不言実行の人、
世界に認められた真心の人だったから、
神に通じたのだと考えております。


お問い合せの走水神社、碑の件ですが、
海軍の東郷だけでなく、陸軍の乃木もですか?
普通では考えられない碑ですね。
ましてや皇室が関係するとなると余程の事がないと
決定されないことですね。


     
           

佐藤マサコの東郷平ハ郎

日露戦争の時、どこからロシアのバルチィック艦隊が
何処からやって来るのか、誰も解からないのに、
東郷平八郎はその艦隊を対馬仲で待っていたところ、
事実、そこに来ました。
歴史家の間では、それを偶然とか、運が良かったからとか、
言われていますが、
東郷平ハ郎は偶然、対馬沖で持っていたのではありません。

私には東郷平ハ郎が自分の書斎で日本地図を広げ、
秘書官に「ここ、」「ここ、」「ここ、」と三カ所、
指し示しているのが見ます。

次に作戦本部で海図を前に明確に
対馬仲と断言しているのが見えます。
それは東郷平八郎のリーディング(霊視)によるもので、
偶然ではありません。
彼は偉大な霊能者だったのです。
そして戦艦三笠で対馬沖に向かったのです。
それで、弟橘媛が東郷平八郎の霊的力を頼って、
戦艦三笠に現れる意味があったのかも知れません。
 

      
          記念艦 『三笠』

海上自衛隊員の奥さんWさんの話です。横須賀にある戦艦『三笠』記念艦の中のホールで当時の記録映画が上映されているのですが、その当時の海軍軍人の姿をしたたくさんのエネルギー体が一緒に見ていたそうです。

        

              横須賀三笠公園の東郷平八郎銅像


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